Malcolm Arnold

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864年-1949)

ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家である。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても名高い。 ? リヒャルト・シュトラウスは後期ロマン派を代表するドイツの作曲家、指揮者。フランツ・シュトラウスの息子。リヒャルト・シュトラウスは後期ロマン派を代表するドイツの作曲家、指揮者。フランツ・シュトラウスの息子。 彼は、1864年6月11日にバイエルン王国のミュンヘンで、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた(ウィンナワルツで有名なヨハン・シュトラウス一家と親戚関係にはない)。母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。リヒャルトは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。 1882年にミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこで彼は短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。 [編集]音楽の変化と発展  この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。 この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と話した。 シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels Lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。 1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は酷評され、『火の危機』(1901年作曲)はミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の成功を収めたにとどまった。 しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳にそのまま作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、内容的にもエロティックな面もあり、上演禁止になったところも多く、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を公開すると、聴衆の怒号の余りの激しさに、たった1回の上演で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその音楽の前衛性に深く共感し、シュトラウスは輝かしいオペラ作曲家としての第一歩を踏み出した。 シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進め、多調の多用、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに至った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。この2人はホーフマンスタールが病没するまで、稀に見る協力関係を続けていくことになる。 その共同作業第2作目になる『薔薇の騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、圧倒的な大衆的成功をおさめた。シュトラウスは『薔薇の騎士』を境にそれまでの前衛的手法から一転、保守的傾向を強め、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派などとは一線を画す路線を歩み始める。その後も一定期間毎にオペラの作曲を1940年代初頭まで続けたが、ついに『薔薇の騎士』を超える成功を掴むことはできなかった。 [編集]ナチスの台頭と妥協 1930年代以降におけるナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐって多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の帝国音楽院総裁であったこと、当局の要請に応じ音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを否定的にみる見解。もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果、孫もユダヤ人の血統に連なる事実を指摘し、自分の家族を守るため、ナチスと良好な関係を維持せねばならなかった点、また、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外す事を拒否するという危険を犯した点、また彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという示唆もあり、むしろ、シュトラウスはナチスに利用され続け、被害者の立場ですらあるという同情的意見がある。 また、ナチス台頭以前のドイツは、それまで築き上げたあらゆる文化、芸術が堕落し、町には退廃的なニヒリズムが満ちていた。このような中でナチスは徹底的な文化政策を行い、音楽家、文学者、哲学者などへの支援を行ったほか、倒産寸前であった各地の劇場に資金を投入している(シュトラウスがこのことを感謝した書簡も現存する)。ドイツ芸術の継承者としての誇りを強くもっていたシュトラウスにとっては、純粋に感謝する対象であったことも事実である。 シュトラウスは第二次世界大戦終結後にナチスに協力したかどうかで非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年)にはナチスの求めに応じて、「皇紀2600年祝典音楽」を書いている(当該項目を参照)。 [編集]終戦後とその死 終戦後、裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはや彼は“過去の人”であったが、自ら指揮棒を振り、健在さをアピールしている。このときの演目は「家庭交響曲」(本人は「アルプス交響曲」を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ奏者を確保できなかった)。なおこの公演で、「あなたが、あの『美しく青きドナウ』の作曲者なのですか?」と行く先々で尋ねられたという話が知られている。 1948年、シュトラウスの最後の作品の1つである、高声(実際はソプラノ)と管弦楽のための『4つの最後の歌』を書いた(出版は彼の死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて歌曲を作曲したが、恐らく歌曲の中でこれがもっとも有名なものの1つである。すでにブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージといった作曲家達が登場し始めていたこの時代、シュトラウスの作風は、古色蒼然とした時代遅れのものとなっており、シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と自ら語っていた。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも常に人気を博している。 1949年9月8日、彼はドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで没した。遺言により、葬儀では『薔薇の騎士』第3幕の三重唱が演奏された。 [編集]指揮者シュトラウス 指揮者としてのシュトラウスは、若い頃はロマン・ロランに「気違い」と批判されるほど激しい身振りを身上とする指揮スタイルであった。しかし、後年のスタイルはカール・ベームやジョージ・セルらの弟子の演奏スタイルから想像がつくように、いわゆる新即物主義的な、誇張の少ないものになった。 もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりもスカート(カード遊び)を好んでいたらしく、ある時、オペラ(セルが口ずさんでいた曲からすると、おそらくベートーヴェンの「フィデリオ」)の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではゲームを約束している時間に間に合わないとばかりに、いきなり猛スピードで指揮をしだしたというエピソードがある。 またベームの証言によれば、「影のない女」を指揮した際に指揮姿を撮影していたカメラマンに「どうか左手を出して、立って指揮をしてください」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したが、クライマックスの部分でつい熱が入ってしまったのか、思わず左手を出して立って指揮をしてしまった。演奏終了後、ベームに「先生は、常日頃から自分の指揮スタイルに関して「これは破ってはならないこと」とおっしゃってました。しかし今日、先生はその教えを自分で破ってしまいましたね」と言われたシュトラウスは、黙ったまま逃げるようにして劇場から帰っていったという。 彼の演奏は自作自演も含め、数多く録音されて現存しており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。 指揮者としての心構えをベームに対して、こう語ったという。「右手で拍子をとるのは外面的な事で、楽員が自らの場所を見失わないようにする為である。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ。」
oncerto for oboe and small orchestra D Major AV.144
Heinz Holliger
1 2
Thomas Indermule
1
Lothar Koch
1
Hansjorg Schellenberger
1
Fumiaki Miyamoto
1
John de Lancie
1
Lajos Lencses
1